No.030
人と野鳥のかかわり 1

 万葉集や古今和歌集には鳥を読んだ歌が沢山あり、季節感に富む鳥は俳句の格好の題材でもあった。絵画の世界に於いても同様である。このように日本人は昔から鳥を身近に眺め、声を聞き楽しんできた。他方、鷹狩りや鵜飼は鳥人一体の技を競う高尚な遊びとして伝統文化の域にまで高められた。また、最近はカラスやカワウの公害が叫ばれている。これも人と野鳥のかかわりから生まれた現象である。これらの話題を順次取り上げ日本人と野鳥とのかかわりを探ってみたい。

鷹狩りについて
 このところ正月の恒例行事となりつつある浜離宮公園の鷹狩りの実演を見てきた。業としての鷹狩りは廃れて久しいが、伝統技術継承を目的に鷹匠や愛好家が協会を作り一般にPRしている。


鷹狩り実演の挨拶


オオタカ白色型

 実演は2日からの3日間、午前、午後に分け計6回行われるが、毎回数百人が見物に訪れる。外国人も多い。6人の鷹匠がそれぞれ左手に鷹を載せ、古式にのっとった鳥打帽、脚伴、地下足袋の正装で現れる。数十メートル離れた2人の鷹匠の拳から拳への飛び移り、樹上から拳への呼び寄せ、鳩に似せた疑似餌の空中キャッチなどが解説つきで演じられる。猛禽が鷹匠の餌籠を叩く音や合図の呼び声で自由自在にあやつられる技(わざ)に歓声と大きな拍手が湧く。鷹がここまでやれるためには2〜3ヶ月の訓練を要すようである。使われている鷹はオオタカ(蒼鷹)が中心であるが、最近は入手が難しいようで調教が易しく入手も容易な米国産のハリスホークも使っている。
 昔はウサギや鶴など大きな獲物にはクマタカ、ウズラやヒバリのような小さい鳥にはハイタカが使われたようである。
 鷹狩りの始まりは有史以前の中央アジアとされているが、日本では奈良・平安時代に盛んになり、源氏物語の「行幸」の巻は醍醐天皇の洛西・大原野での鷹狩りの行列描写から始まる。かっては天皇や公家たちの遊びであったが、信長、家康の時代には将軍、大名の軍事訓錬の要素が加わる。
江戸末期にはやや廃れるが、明治天皇の「千6百年の伝統を残せ」とのひと言で、宮内庁によって鷹匠や鷹場の制度が復活した。浜離宮の他に千葉の行徳や埼玉の荒川べりに広大な猟場と鴨場が整備された。鴨場では池に水路を設け、囮の鴨につられて入って来る野生の鴨の退路を断ち、客が大きな網で捕まえる。網を逃れた鴨を鷹匠が鷹に捕らえさせる。主に外国高官の接待に供されたようであるが、戦後はGHQの接待にも利用された。
 現在は皇太子夫妻のデートで有名になった行徳鴨場を残すのみで、鴨猟は年に数回実施されているようである。但し、食べるのは養殖のアイガモである。浜離宮の方は庭園として開放され、鴨場は往時を偲べるよう昔のままの姿で残している。


鴨場の水路

 自然界では鷹類は鳥や小動物を食べて生活しているが、鷹狩りとは彼らを訓練しその上前をはねる行為である。伝統技術とは言え自然への接し方が変わり批判の声に抗し切れなかったのであろう。他方、猟銃の時代にこのようなのんびり且つ優雅な狩りを懐かしむ気持も強まっているようである。
(03.1.10)




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